恋をして 恋に敗れ
ブログタイトルを決めるのと書き始めが1番むずかしい。
こだわっているわけではないが歌詞のワンフレーズをタイトルにして導入するスタイルをとっている。
「恋をして 恋に敗れ」って何の歌詞だよと思うだろうがこれは24時間テレビ公式テーマソングのサライの2番の歌い出しである。今ググって調べた
じゃあ恋をして恋に敗れた話をしたいのかと言われるとそうではない
24時間テレビといえば毎年夏の終わりの週末に放送される
CMのサライのオルゴールのメロディを聴くと夏の終わりを感じるとともに夏休みの宿題に追われる幼少期のツライ気持ちを思い出す
夏休みの宿題ってほんとに“提出するため”だけに存在した
まじめに全部やってくるやつなんて高校時代いなくて、全部出すだけて評価される世界だった
むしろ高校入学まえから大学に指定校で行くことを考えていたので評定を保つためにテストの点数よりも日頃の行いを重視した高校生活を送っていた
人生最後に書いた読書感想文は当時前田敦子主演で映画化までされた通称“もしドラ”だった
当然「もしも高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」なんて読んでない
映画を見て、本をパラパラめくって入ってきた各章の表題から思いついたことを適当に原稿用紙を埋めていっただけである
だいたい原稿用紙5枚、文字にして2000字、それの8割をかければいいだろうということで4枚超えるくらいを「」(カギカッコ)の改行を駆使して書いていた
ほんとになんの意味があるだろうなと思う
そもそも読書感想文の書き方って何が正解なんだろうなと思う。未だにわからない
読書感想文と2TOP張る自由研究もまた同じ
大学で教授に泣かされながら機械物理実験、機械工学実験、卒論を経てはじめて身につくスキルを義務教育の小中学生に求める文部科学省は正気かと思う
中学のときの自由研究のノルマが大学ノート20ページ、あるいはガンピ(模造紙のこと。ガンピというのは富山県だけらしい)1枚のまとめ
それはもう論文レベルだろ。卒論なんてだいたい本文と付図で20ページくらいだし、学会にでればポスターとして1枚にまとめる
当時は大学ノート20ページ分の研究成果なんてかけるわけなくてとりあえず1ページに写真を2枚ずつくらい貼ってページ数を稼いだ
悪いことをしてる気持ちだったが、普通に考えたらそれが正解だったんだと思う
人生最後の自由研究は中3のときに凍らしたペットボトルをいろんな環境においてどれが1番長持ちするかみたいなことをした
今思うと伝熱工学のニュートンの冷却の法則の実験なのかもしれない
今ならもっと面白いことできそうだなと思うし、自分に子供がいたら(希望的観測)子供よりも必死になって取り組み、誰が見てもそれ親がやっただろみたいな自由研究で金賞取らせてたと思う
今回のブログのテーマだが『夏休みの宿題』ではなく、一冊本を読んだのでその感想を書きたかったのである
ちなみにここまでで1192字なのですでに原稿用紙3枚分は書いた
あれほど文字を書くのが苦痛だったのに気づいたらそれくらいは書けてしまっている
でも文章は長ければいいってものでもないと佐藤ノアが言っていた
本ブログを愛読してる方にはおなじみかもしれないが最後にこのキャプチャを添えて“自虐”で終えるというルーティンがある
佐藤ノアのタレント活動として何をやってるかはそんなに知らないがSNSで発せられる言葉ひとつひとつのセンスや共感性がすごくすきで
言葉に魅力のある方だと思う
今回読んだ本が佐藤ノア著書の
『嫌いな自分にさよならしたいあなたにあげる魔法』
である
2020年に発売された本で発売されてすぐに買ったが読まずに放置していた
本は買うか読まないことが多い。正確にいうと読みきれないことが多い
漫画すら読まないし、アイドルがワンマン、生誕後にあげる長文テキストすら読めない
にも関わらず自分は長々と文章を書いているし、けっこう好きで全部読んだみたいなことを言ってくれる人もいるし、感想をくれる人もいる
基本的に発信する側が好きな自分が、受信する側として1番文章に魅力を感じるところが佐藤ノアにはある
もともと連載でお悩み相談をしていたのをベースに書籍化されたものなので短編で区切られていて読みやすい
自己肯定感やSNSに対するモチベーションにも言及していてヲタク目線でおもしろいと感じる部分や共感できる部分も多かった
若い女の子の恋愛相談の章に関してはヲタク目線で共感できる部分は何もなかった(それはそう)
もともと自己肯定感に対する人の考えたかには興味があるし、SNSも人とは違う発信の仕方を心がけている方なのでそれだけでも読む価値はあった
全部が全部共感できるわけでもないし自分に必要な部分でもないがキーワード厳選して書きたいと思う
ひとつめは「自己肯定感」についてである
『自己肯定感の高い低いなんて分からない』
『自己肯定感があるふうに見せてるだけで低いのはみんな同じ』
たしかに自己肯定感の高い低いの基準で何なのかと思うし、大抵の人は低いだろうとは思う
高い人はいるかもしれないが、それは低いという現実からあげるために努めた人の結果であって
自己肯定感があがればその中でまた自己肯定感は下がり(正確にいうと基準より低くなる)、上げるために努める、その繰り返しだ
「自己肯定感」に対して
自分は自己肯定感は常に低いタイプであはあると思うし、なかなか自分自身を肯定できるタイプではない
ただ自己肯定感は低いが他人と比較して何か見劣りしてるように感じるかと言われればそうでもない。あくまで自分がこうでありたいともうけた基準の中で、できているかできていないかだと思う
また自分の場合は他人に対する肯定感ももれなく低い
だから他人に対して全肯定ができなくて、極端な話、それができる人って物事に対してハードルが低い人なのかなと思うこともある
全肯定のなかにある肯定って、肯定そのものに価値を感じないし、否定の中にある肯定だからこそ価値を感じるし与えられるのかなと思う
別に自身も他人も否定しろとは思わないけど、ある程度肯定感の低さを持っていくことで、自分や他者の肯定感も上げられるのかなと思う。
結局自分自身に納得できる基準であって、その基準をクリアすればまた基準を上げての繰り返しで
基準を上げていく中で自己肯定感のマイナスは自然に生じるものなんだと思う
『この先のことなんて分からない、今日と明日を良くすることだけ考えて生きる』
自分が人として心からリスペクトするアイドル 佐倉ちひろ先生が2022年最後の夏フェス終わりに
「来年の夏も一緒にすごせるかな?」と問いかけてきたあとに
「でも私たちは常に今を昨日以上にしようと生きてるよね」
と言われたことがある。自分はアイドルと長い関係を築くことに対してすごく自信がなくて、『来年も』なんてなにがあるか分からないし、保証もできない
だからその時その時を最大限に過ごす、その積み重ねが長い関係に繋がるんだという思いでいることもあって
そのときに佐倉ちひろというアイドルからそのような言葉が出てきたことが嬉しかったのを覚えてる
自己肯定感は低いもの、自己肯定感があがればまたその次のステージで自己肯定感は低くなり、それを上げるために昨日よりも今日、今日よりも明日を生きるんだと思う
『一番好きな人間が常に自分でいられるようにする』
『私って何かいいかも、が、何かあればよい』
自分を好きでいられるモチベーションを保ち、1日の幸福度を上げるということだ
確かに、自己肯定感が低いといいながらも自分のことが嫌いかと言われれば嫌いでもない
もっとこうではありたいと思いながらも、現状自分に与えられた環境の中で満足に生きている
自分で自分のこと好きだなと思う瞬間はアイドルのライブに行って誰よりもバカみたいに踊ってるときかなと思う
あの瞬間だけは誰にも負けてない気持ちになれるし、誰よりも楽しかったという気持ちにもなれる
あえて誰もやらない土俵を選ぶのも一つ手だと思う
自分が踊ってみた動画を上げるときにイントロからワンコーラス投稿することをポリシーにおいてて
その理由がサビだけなら誰でも踊れるけど、ワンコーラスを覚えるヲタクはそういない。それができるだけで極論一人勝ちできる土俵でもある
他人からしてみればそれができたところでみたいなところはあるかもしれないが、それでも現に自分のモチベーションと自己肯定感を保ててる
誰よりもライブに行くでもいい、誰よりもチェキを撮るでもいい、誰よりもキレイに高くマサイするでもいい
ひとそれぞれ自分にあったかたち、自分にできることで自己肯定感を保てたらいいし、自分は幸いにも振りコピというジャンルでそれを見つけられた
『自分の楽しい時間が過ごせてたら好きな人の元カノのインスタなんて覗かない』
『人の携帯見てろくなことがないのと似ていて、探ればボロがでるのだから、せめて自分からは探しに行かない』
これはいいね欄を覗きに行ったり、TikTokのコメント欄を開いてみたり、配信に行ってみたり、人のアカウントを掘ったり
そういうのってたどり着く先は負でしかないから自分から断つようにしなければならないとは思うが、実際はできない
意外といい距離感保てるアイドルって、そこまではしていないことが多いし、必要以上に情報は入ってこないし、周りと比較して何か思うこともない
他人は他人、自分は自分で、自分が満足できて楽しければそれでいいに気持ちを持っていくことなんだと思う
『人に好かれる努力をする』
『嫌なことの回避方法として人に好かれる努力をする。とくに目上の人に好かれる努力をする』
自己肯定感といいつつ、他人からの評価を気にするが故のものなので、ひとに好かれる努力をすることも大切なのは間違いない
人に気に入られることで楽にできることもあるし、人以上に評価してもらえることもある
お気に入りという意味合いで“おきに”という言葉を使うかと思うが、生きてきた中でどんなコミュニティにもおきには存在する
あいつはおきにだからいいよなと親指をくわえながら生きていたこともあれば、お前はおきにだからいいよなと後ろ指をさされなが生きてきたこともある
気に入られる理由はあるし、気に入られるための努力もみんなしている
人に気に入られようとすると、必ずそこに対してよく思わない勢力は現れるが、そういう人間こそが自己肯定感をさげる1番の要因になるので関わらないを徹底するべきだと思う
どこの世界でも大人に可愛がられる人間が強い
この本を読んで自己肯定感について何か新しい考え方を持てたかというよりは、なんとなく共感できる部分のほうが多かった
本を手にとって読んでみて、出てくる言葉一つ一つに共感があり、自分がなにか答えを求めたいコンテンツに手を出してるからかもしれないが
同じように考えてる人、共感でき価値観を共有できる人がいることで
自分の考え方や生き方に整理がつくし明確になる部分がある
ここからは自己肯定感とはかけ離れるが面白いとおもったので共有したい
『主語のないツイートをする』
例えば
「私は今鍵をなくして家に入れなくて困っている」
を
「失くしてから大切さが分かるものってあるよね」
と書く
『読んだ人は「ああいうことかな!?」と思いあたる何かに当てはめて考えてくれる』
『主語のないツイートは共感性が高い』
『ツイッターは敢えて自分の言葉を使わず他人のツイートに対していいねリツイートすることでまわりに伝えようとする』
佐藤ノアのツイートの何かよくわからないけど共感できてしまうのが腑に落ちた気がする
主語が入らないことによって他人のツイートでも主観的にみてしまうなというのは理解できる
自分の口ではいいたくないけど…や、世の中に対して思っていることを代弁してくれると、ついRTしてしまう
それはもう他人のツイートだけど自分の本意的なところはある
ただ自分の手は汚さずに言いたいことを言っている感は否めないが、そこが共感性を生むのかもしれない
ここで言いたいことって「主観的」か「客観的」かによって共感性が生まれるかどうかだと思うのだが
自分がツイートをする上で一つ意識してることがあって
「面白かったこと」をツイートするときに事実だけを述べるようにしてそこに対して「〜で笑った」とか「wwwww」とか「🤣🤣🤣」みたいな主観は入れないようにしている
相手に同じ状況与えてそこで自分と同じ感情になってもらうことで共感を生むことができる
会話レポとかでも基本的にそこで行われた会話だけを記述するようにして、その会話の内容の面白さに気づくかどうか、突っ込みたくなるかは受けて次第
発信する側の突っ込みたい気持ちが受け手に伝わったときにより面白いと感じされることができる
おもしろ話を笑いながら話されても全然面白さが伝わらないのと同じである
共感を得るときには、いかに客観的に書き、いかに相手に主観的に見てもらえるかは特に重視しているところはある
「ボケる」か「ツッコむ」かのどちらか
「笑い」は受け手側に委ねること
なんの話って感じだけど、ツイートが面白い人、共感性の高い人はどこか“客観的”に感じることが多いので意識してみて欲しい
本を読んだ感想はこれくらいにしておきたいのだが最後にひとつ、センテンスごとに本人の手書きの文章があった
言葉、文章一つとっても手書きってより一層そのひとの言葉になって伝わると感じた
よく生誕祭の代筆フォームとかあると思うけど、あれって誰かが手書きで書き直してるのだろうか
それてもワープロのテキストで印刷してるんだろうか
手書きの方が丁寧な気もするが、それが本人でないならゴシック体のほうがいい気がする
おじさんのメッセージを女の子特有の書体で書かれると全然伝わらないとおもうし、女の子のメッセージを男の汚い字で書いてしまうのも違う
バカっぽそうでもきれい字書くんだなとか、頭いい人特有の汚い字だなとか、見たまんまのザ女の子という感じの丸文字とか
手書きはその人の言葉と掛け合わせることでいいものになると思う
この本を読む上で随所で手書きの言葉があったことがよかった
デジタル媒体でも今ではiPadなどで手書きができる
Only FiveとかWithコレとか温かみはある
今もフリック入力で文章を打っていて、ペンを持つ機会もかなり少なくなったが
どこかで手書きの良さもとりいれて今後はSNSを活用してみたいと思った
ここまてで《5854字》原稿用紙15枚分となってしまった
むこう3年は読書感想文は書かなくて良さそうだ
さすがに長過ぎてここまで読んでくれた人はいるのだろうか
愛は地球を救うことに真剣に語ったほうが良かっただろうか
そう思いながら最後にこのキャプチャをおいて終わりたい